シングルマザーズフォーラム京都のおしゃべり会の模様は、最近よくブンタから聞いていたのだった。今日はクリスマス会だったので、参加すると言ったら、余興でリコーダーを吹くという話になってしまった。さすがに昨日、数年ぶりに練習してみた。すると、指がうごかないではないか!?ショック!!!
時の流れというのか、老化というのか。
かつて、笛の音にとりつかれたようだった私は、もちろんもういないわけで、その残照のような私が、子どものリコーダーを吹いている。やれやれだ。
多分、かつての私は、どのような感情を音に込めようと、一定の美しい音色に変えて放出してくれるリコーダーという楽器を心から愛していたのだと思うし、ああ、そうだったんだな、と、改めて思うことができた。
そして、そんなことをすっかり忘れて、子どもを育てていたんだな、ということを、ウィングス京都をうろうろする子どもを手なづけながらおもったりもした。
新たな怒りや、新たな学習が日々ないわけではないが、それは、どちらかというと、社会の負の側面をまなぶことになったりするわけで、忍耐を学んでいるのだとすれば、まったくつまらない話だ。
大人になっちゃったんだから、不毛な軋轢は避けたりもする。
しかし、残照といえども生きていた過去の私が、今も生きている。
一方で、死んでもなお生き続けることもある。
死んでからなお、先に行くこともある。
死んでなお一層あざやかに誰かのかたわらにいることも。
生きるということは、この社会にいるということは、
いるということは何だろう。
遠ければ遠いほど、愛しいことはある。
近いということの親密性以上に。