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4月22日の光市事件に対する広島高裁の判決は、それに言及するには長い時間を要するものだった。まず、認めることが難しい。さらに、今後この判決がこの社会にもたらす事柄を予想し、その社会になお、生きていくということを受け入れr事もまたたやすくはない。 「正義」という言葉は今、あまり評判がよくない。実際使われ方が、ねじくれていて、警戒が必要であることは十分にわかる。しかし、ジャスティスそのものがだからといって、はなから失われて良いという話にはならないし、むしろ、そのかく乱自体を問題視するべきなのかもしれない。 事実調べ、証拠、精神鑑定、検死、生育暦、その全てが無に帰された。 初めに結論ありきは、最高裁という宗教に対する帰依だろうか。あるいは、世論への屈服か。むしろ、政治的な意図のもとの故意の誘導なのか。人を死に至らしめることを、なぜ、請求に、あえて思慮を排して結論付けなければならないのか。 4月22日、朝9時過ぎ、ヤフーのニュースカテゴリー。「あなたはこの記事をどう思いますか?」答えは、殺せ殺せ殺せのオンパレードだった。私はまずそれに震撼し、よせばいいのに、リアルタイムなニュースを流した。主文読み上げを最後として、小刻みに伝えられる判決文の内容。それは「判断」のための「考慮」が示されない独断でしかなかった。 今後は2人という基準が適用されるべきであるという答えが先行し、少年であるかないか。少年がDV被害者であるかないか、精神鑑定上12歳とも4~5歳とも言われている結果、実証検分上自白との明白な矛盾があること等々も、全て「さして死刑を回避する理由」にならず、ただ、2人を殺したのなら自動的に死を持ってあがなうべきと指し示す意図が勝ち、それが社会に支持され、恒常的なものとなってしまったのだ。 愛されることなく、弁護されることのない人間は、なおさら、そのことを理由に殺されるだろう。生きる意味も知らず、それを求める意思もなく、死にたいからと、殺されたいからと、人を殺める人間をも生み出しながら、抹殺のメッセージをまきちらかすだろう。 人が人の死を望む社会を黙認、誘導、実行させるだろう。 殺すことを「正義」と定義するだろう。 ただただ、殺すことを・・・・・・ それを容認しないものは殺されるかもしれない。少なくともその思想は抹殺されようとしている。それに対して、抗う、抗い続ける、それが生きることだと言うとすれば、そのことは、生きるうえでの質ということに、あからさまに関わってしまうことであるだろう。 パラドクスだ。死を忌み嫌うがゆえに、死をもららした者を抹殺することも、生を肯定するがゆえに死をもたらしたものの生を、理解することも。生殺与奪の権利は誰にもない。唯一あるとすれば、愛するものを殺された遺族だろうが、彼らもまた権利を国家に委譲する。もともと、その権利などあってはならない「権力」が、委譲されたことを糧にして死を司ろうというのだ。その醜悪な意図を、愚かなる「大衆」の裁判員たちにも共有させるべく、ただ、機械的な基準を一方ではぜひろも必要としたのだろう。何もかもをなめきっている。なめられまくっている。
by fuyukikai
| 2008-05-05 23:48
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