「国体の本義」を読み終えて、フェルナンド・ペソア「不穏の書、断章」を読みます。
ほとんど類を見ないほどのはげしい断絶。同時代でありながら、ベクトルの正反対。はたして、知性はどちらにあったのか。
1988年にリスボンで生まれたペソアは自分自身についても作品についても、「完成」し、一に帰することを決定的に拒み、様々な異名で詩やエッセイを書き続けた。私をつきつめ、見つめ続けるその意思。一方で大上段に大御心のもとに一つといったら一つなの。アマテラス以来ずっと万世一系、一大家族国家なの。と、言い張る考え方は、単なる伝承の採用にすぎなかったにもかかわらず、今も、いや今むしろ「日本会議」などにつらなる自民党の面々は、真剣に信じていることを隠そうともしない。そして、相変わらず「個人主義」を攻撃し、「知ると知らざるとにかかわらず、日本人である限り、天壌無窮の神勅たる命法のもとにある。」などのイデオロギーを「親孝行をしよう」などの簡易な言葉に置き換えて、普及しようとしている。んじゃないの? とはたと、思い至ることの恐ろしさよ~。
だって、「戸籍」に表現されていることの本質がそれだし、それだから、「氏名」は絶対なのだものと、思い知らされたのだもの。